凡人の投資

何ら才能のない凡人のセミリタイア論

泥沼

逃げるは恥だが役に立つというドラマがあったがこのタイトルはハンガリーのことわざに由来するらしい。しかしなかなかに的を得ている言葉だ。

競争とは本来意味のあるもので社会を豊かにするものであった。他人よりも幸福になりたい、他人よりも優位に立ちたいという願望は努力の原動力となり社会発展に貢献してきた。しかし日本は絶望社会となった。もはや競争は本人のためになるものではない。私は競争を否定するわけではない。私も事実物心ついてから中学高校大学会社員と競争に明け暮れてきた。だが競争はお互いに切磋琢磨するという面では意味のあるものの続けるうちに陳腐化が進む。レッドオーシャンという言葉を聞いたことがあるかと思う。競争が進めば努力対比得られるものが少なくなっていく。当然競争を辞めたいと思う者もいるだろう。

しかしそのような人間は資本主義社会において都合が悪い。全員が全力を尽くして金儲けに邁進している状況が資本主義に、あるいは資本家にとっての奴隷労働者としてもっとも都合がよいからである。

たとえば、全力を費やして100の収入を稼げる男を考えてみる。この男が100では満足いかぬ、来年は101、その次は102というたゆまぬ努力を続けてくれればその男の生産を享受できる資本家、もしくは税金という形を通して年金受給者等にメリットがある。しかし俺は30で十分だと努力をやめてしまえば一大事だ。そうならないようこの男の尻を叩き続ける必要がある。

資本主義社会はこれをスムーズに行うことにたけている。上と下が用意され、逃げ道が断たれている。自分より上が大勢いる、しかしながら競争に勝ってきたことで自分より下も大勢いる。そして競争を諦めたとしても生きていく方法が見当たらない。

このような状況に置かれればいやでも競争を続けていくしかない。そこから脱すれば負け犬、負け組扱いだ。だが実際その中で困窮し疲弊し、最悪自殺を選択する者もいる。

悲しいことだ。誰かの描いた絵の中でうまくいかないのならば逃げ出してしまえばいい。誰が笑おうと関係ない。本来他人など、ましてや他人の考えなど己にとっては何ら価値のないものだ。技術革新によって情報が豊かになった現在、競争から脱して生きていく手段などいくらでもある。

しかし方法論はともかくそれを良しとする哲学を己の中で確立させなければ自分は競争から逃げた負け犬だと思い込み、精神的な意味で豊かになることはできないだろう。