凡人の投資

何ら才能のない凡人のセミリタイア論

投資論1

投資の重要性はこれまでも語ってきたが具体的な投資論については言及していなかった。投資といえばリスクはつきものだが、リスクのない投資も存在する。

国債だ。米国においては米国債、日本においては日本国債と居住する国が発行する債券に投資するのが最もリスクが小さい。国が破綻しない限り利子が振り込まれ、また満期になれば元本保証である。(外国の債券に投資するのはFXリスクがある。)

経済理論においてこの国債に投資して得られる利回りのことを無リスク金利と呼ぶ。逆に言えばこの金利以上の収益を得ようとすれば何かしらのリスクをとらなければならないということだ。

現在の日本は大規模な金融緩和の影響から10年国債で利回りはほぼ0となっている。

国債に投資し利益を得るのが不可能な以上、何かしらのリスクをとらなければならないということだ。リスクがあるということは失敗する可能性があるということ。

投資に失敗する人間が多いのはでたらめにリスクをとる人間が多いからだろう。

投資の手法としてはテクニカル分析ファンダメンタル分析などといったものがあるが個人的には何の役にも立たない概念だと思っている。当然、それらで大金を稼いだといっている人間がたくさんいることは知っている。しかしその本を買って、本に書いてある通りのことを実行すれば成功するか?答えは否である。あまりにアートであり、再現性のない理論なのだ。

本来相場というのは上がるか下がるかは五分五分でありプロであっても長期的に勝ち続けることは難しい。そして五分五分ならば勝ちと負け半々にわかれてもよさそうだが実際には9割の負け組と1割の勝ち組に分かれている。私はこれは損益の非対称性と手数料によるものだとおもっている。

手数料は簡単である。手数料を1%とするとあなたが勝っても負けても投資金額の1%は失われるし、勝った場合は勝ち分の2割は税金として没収され肥やしとなる。この時点で五分五分ではなくなる。

損益の非対称性とは負け額に限度がある一方、勝ちには限度がないことから発生するものだ。非常に簡単なゲームを考えてみよう。コインを投げて表がでれば賭け金が倍、裏が出れば0となるゲームだ。これに自分の全資金を投入していく。勝った場合は1、2,4,8と増えていくがそのうちどこかで一回でも負ければ0 ゲームオーバーだ。当然実際の投資では常に全額を賭けるわけでもないしそのように極端なペイアウトではないものの、自分の資金が増えていけば賭け金を増やさなければならない。全資産が1億円になったときに100万円を投資し、3万円を得たとしても資産対比の効果は小さい。自分の資産が増えるにつれ、投資金額も増やさなければ意味のある金額は得られないからだ。

以上のことから相場で勝ち続けるのは非常に困難であり9割が負け組に回るもの容易に納得がいく。さらにはっきりいって私は凡人であり、他人を何らかの形で上回る、もしくは競争に勝つという見込みは0であるという認識からスタートしている。(こうすれば甘言に騙されることもない。)しかし凡人には凡人の道がある。一攫千金など望むべくもないが、少なくとも何ら才能を必要としない投資法は存在するのである。

まだ自分に可能性を感じている人たちはどんどん挑戦していけばいい。うまくいけばそれでいいし、うまくいかなければ凡人の投資スタイルを行えばよいのだ。

泥沼

逃げるは恥だが役に立つというドラマがあったがこのタイトルはハンガリーのことわざに由来するらしい。しかしなかなかに的を得ている言葉だ。

競争とは本来意味のあるもので社会を豊かにするものであった。他人よりも幸福になりたい、他人よりも優位に立ちたいという願望は努力の原動力となり社会発展に貢献してきた。しかし日本は絶望社会となった。もはや競争は本人のためになるものではない。私は競争を否定するわけではない。私も事実物心ついてから中学高校大学会社員と競争に明け暮れてきた。だが競争はお互いに切磋琢磨するという面では意味のあるものの続けるうちに陳腐化が進む。レッドオーシャンという言葉を聞いたことがあるかと思う。競争が進めば努力対比得られるものが少なくなっていく。当然競争を辞めたいと思う者もいるだろう。

しかしそのような人間は資本主義社会において都合が悪い。全員が全力を尽くして金儲けに邁進している状況が資本主義に、あるいは資本家にとっての奴隷労働者としてもっとも都合がよいからである。

たとえば、全力を費やして100の収入を稼げる男を考えてみる。この男が100では満足いかぬ、来年は101、その次は102というたゆまぬ努力を続けてくれればその男の生産を享受できる資本家、もしくは税金という形を通して年金受給者等にメリットがある。しかし俺は30で十分だと努力をやめてしまえば一大事だ。そうならないようこの男の尻を叩き続ける必要がある。

資本主義社会はこれをスムーズに行うことにたけている。上と下が用意され、逃げ道が断たれている。自分より上が大勢いる、しかしながら競争に勝ってきたことで自分より下も大勢いる。そして競争を諦めたとしても生きていく方法が見当たらない。

このような状況に置かれればいやでも競争を続けていくしかない。そこから脱すれば負け犬、負け組扱いだ。だが実際その中で困窮し疲弊し、最悪自殺を選択する者もいる。

悲しいことだ。誰かの描いた絵の中でうまくいかないのならば逃げ出してしまえばいい。誰が笑おうと関係ない。本来他人など、ましてや他人の考えなど己にとっては何ら価値のないものだ。技術革新によって情報が豊かになった現在、競争から脱して生きていく手段などいくらでもある。

しかし方法論はともかくそれを良しとする哲学を己の中で確立させなければ自分は競争から逃げた負け犬だと思い込み、精神的な意味で豊かになることはできないだろう。

生活の方程式

サラリーマン生活に嫌気がさしてセミリタイアを目指す若者が増加している。

私もそのひとりである。当然のことだ。

低賃金長労働時間、サービス残業も当たり前、努力とは裏腹に困難な生活を強いられる若者が増加しているからである。それに加えて根性でそれをやり抜いたとしても明るい未来は特にないとくるのだからたまらない。方向転換を考えて当然である。

 

ではここでセミリタイアに何が必要なのかを考えてみよう。

基本的に持続可能な生活とは

収入>支出

の式が成り立っている生活である。では収入の100%が労働収入によってなりたっているサラリーマンはどうなるか?仕事をやめると収入が著しく減少するのだから貯蓄をとりくずすことになる。すなわち

支出 X 死ぬまでの期間=貯蓄

となったことを持ってセミリタイア、そのために十分な貯蓄を目指す という者が多い。しかしこれは間違いである。

まず第一に死ぬまでの期間がわからない。第二に支出もわからない。

医療費、冠婚葬祭・・突然の出費を避けることはできないからだ。

そして第三にサラリーマン生活によって十分な貯蓄をためることもできない。

全てが不可能なのだ。よってセミリタイアを志すものは以下のように考えなければならない。

1、労働収入以外の収入(キャッシュフロー)を得ること

その手段は株式投資、不動産投資、ネットビジネスを含めて自分のビジネスを持つこと。ただし後述するが志を大きく持つ必要はない。

2、支出を削減すること

貧乏生活をするということではない 貧乏と節約 似て非なるものである。

簡単な例を示そう 外食するよりも自炊すればより安価でより満足な食をとることができる。住居を東京から地方にうつせばより安価で広く、よい条件の家に住むことができる。こういった 満足感(経済用語でいうところの支出により得られる効用)を増やしつつ、支出を削減するのである。

 

この1と2を同時進行で行う。するとどうなるか

収入>支出

この方程式が左側は上昇し右側は減少することによって達成難易度が格段にさがるのである。そうしてサラリーマンをやめたあともこの式が成り立っている以上

持続可能な生活を送ることが可能になる。また、特筆すべき点として

労働収入を減少させることによって払う税金、社会保険料等が低下、

今まで搾取されてきた社会に対しささやかな報復ができるという点も忘れてはならないだろう

複利2.0

今週も1週間労働が終わった。なんのおもしろみもないサラリーマン生活唯一の希望といえる給料が振り込まれる。

当然サラリーマンの特権として税金を天引きしていただけるため額面よりもはるかに低い金額が振り込まれることになる。これを何の工夫もなく銀行に入金してしまえばそれで終わり。一度のATM手数料で消滅する程度の金利になるだけである。

これも時代の流れである。定期預金に5%ほどの金利が付いた時代ならば確かに額に汗してはたらいていればいつかは金持ちになれるなどという幻想も通用しただろうが現代においては額の汗を拭くタオルを購入しておしまいだ。

よってすぐさま1割を残して引き出し高配当株に投入する。

だが、ここでひとつの事実に気づく・・仕事後になにげなく自分が買っていたビール・・およそ230円である。毎日購入すれば8万4千円。この金額を高配当株によって得るためにはいくら投資すればよいのか?配当利回りが4%という超高配当株に投入したとしても210万円が必要という計算になる。

これはすなわち

210万円の利回り4%の株の価値=毎日ビールいっぱい飲む習慣

という式が成り立つということだ。

ではあらためて自分に問いかけなければいけない。私は毎日のビールにそれだけの価値を見出しているだろうか?と

当然その答えは人による。どうしても高級車にのらなければ気が済まない人間もいれば満員電車に揺られることをよしとする人間もいる。ただこの場合私の答えは否であった。

断然ビール購入を停止し、かわりに水を飲むこととした。健康にもよく一石二鳥だ。

私はこの気づきによってキャッシュフローという観点では210万の利回り4%の株を購入するのと同等の経済的価値を得たこととなる。また、毎日ビールを買う生活を続けてこれたのだから当然その資金は投資に回せることとなる。

年間8万4千円の投資資金の増加である。

節約と投資が結びついた瞬間である。これが複利2.0だ。

教科書を読んで計算してるだけでは絶対にでてこない資金を捻出し投資に回す・・これは一つの例であるがこの気づきによって私の手取りは8万4千円増加し、さらにそこから生まれる投資複利4%が増加することとなったのである。

なるほど、僅少という批判はできる。しかし一事が万事これである。

生活のいっさいにいたるまでこの方程式を導入していけば私の資産増加速度は爆発的なものとなると確信している。

残渣

節約と投資・・一見関係のないようにみえる2つだが実際には切っても切れない関係にある。

 

具体的な例をあげて解説しよう。今年収500万のサラリーマンを考えてみる。

30代で500万に到達できれば上出来だろう。独身の場合手取りは400弱となる。

話を簡単にするために400としよう。

このサラリーマンが1年間生きていくのに必要なお金が300とすれば残りは100

もしこの男が全額投資するほどの決意を固めたとしても5年で投入額は500となる。

 

一方で節約を駆使し150で生活するとする そうすると残りは250

さきほどの決意のもとならば5年での投入額は1250となる。

圧倒的大差である。しかも投資の世界には複利というものがある。

例えば年5%と素晴らしい運用ができたとしよう

その場合前者の5年では553万、 後者の5年では1380万となる。

さらに差はひろがる。ここで重要なのはこの男が収入が増えたにも関わらず

生活費を固定したことだ。投資により収入が5増えたから消費も5増やす

このようなことでは複利効果は得られない

複利効果とは投資で得られた金をさらに投資に回すことで得られるものだからだ。

したがって入ってくる金が増えれば増えるほど使う量も増える 

これはだめだ、 重要なのは

入ってくる金に関係なく 節約スキルが上がれば上がるほど 使う量を減らす

これによってさらに投入資金を加速させ、複利よりもさらに上

複利2.0 の効果を得ることができるのである

転換

投資、インターネット・・これらの道も霧に包まれている。

 

株式投資で億万長者、fxで3億円、youtuberで年収1億円、有名ブロガーで年収5千万、アフィで年収2億円・・こういった情報が世の中に溢れすぎており、またそういったものを利用して人生逆転をはかり、挫折する・・そういうケースが多すぎる。

 

どうすればいいのか?思考の転換だ。

億万長者、何千万といった大金は不要だし、目指す価値もない

 

そもそもふさわしくない人間が大金を得れば、かえって生活水準を見失い不幸になる。宝くじ当選者にろくな未来なし というのはそういうことだ。

 

よって目指すのはこういうものである

株式投資で月10万円、youtuberで月2万、 ブログで1万・・・

このように目線を現実的なものにかえ夢物語を現実の話に変える。

上に挙げた金額でも難しいのはいうまでもない 努力なしには何も得られずに終わるだろう。だが、月2万円を目標に努力を続ければたどり着ける。

 

そんな少額を得てもしょうがないだろう。そう思うかもしれない。

しかし節約スキルと組み合わせれば絶大な効果を発揮する。

例えば月2万で通常の食事代はすませる このようなスキルを得た場合youtubeで月2万の不労所得を得れば実質食事は働かずしてまかなえるようになるのだ。

節約と少額ながらの不労所得 この組み合わせが美しき衰退である。

しかもはじめはばかにしていた少額の収入も去年が2万 今年も2万たして4万

という風に増加させていけばばかにならない。

そこがストック型の労働の素晴らしいところである。

アインシュタインも人類の最も偉大な発明は複利だ、 

といったがそこから得られた金をさらに投資に回し運用も可能だ。

小さなものでも積み上げに積み上げていく。

それがフロー型の労働で得られる収入を上回る日は必ずくるだろう。

積みあがっているのだから。

 

 

これらが素晴らしいのはサラリーマンを続けながら可能な点だ。仕事終わりに飲み会にいって愚にもつかぬ話を聞いている場合ではない。

即刻帰宅し、少量の不労所得製造に時間をあてる。

 

 

解脱

人間においてもっとも重要なものは何か。
時間だ。時間は誰にも平等に与えられ、失えば取り返すことはできない。
やりたくもない仕事を毎日毎日死ぬまでするというのは人生全てを棒に振るのと同じ。
しかし現実的には金のないものは時間を有効に活用できず、また凡人は労働以外に金を得る手段がないためいつまでたっても働くことになる。

解脱序章で大量消費志向から小量節約志向に転換をはかれたとしても収入0ならば話にならない。節約のしようもない。したがっていかに贅沢を目指さぬとしても収入は必要だ。

ここで労働を二つに分類しよう。フロー型の労働とストック型の労働だ。
フロー型の労働とは労働の成果と交換にお金をもらう労働。一般的なサラリーマンはフロー型の労働となる。
ストック型の労働とは労働の成果が自分の資産になり、翌年からはその資産からもお金をもらえる労働。例えば投資家、作家、アフィリエイターなどはストック型の労働となるだろう。五年前の労働の成果から今年は100万、四年前の成果から40万という具合に積み上がっていけば収入は増える一方、金を得るために必要な時間は減る一方だ。

いつか仕事をやめることをフロー型の労働で目指すのは難しい。なぜなら入ってくるお金を貯めることはできるものの、いくらあれば一生生きるに十分ときめることはできないし、日本においてサラリーマンは一旦仕事を辞めてお金がなくなったから三年後に再開ということはできないからだ。著しく収入が低下するだろう。

したがってストック型の労働を目指すことになる。だがここで問題に直面する。資本主義社会においてフロー型の労働者は非常にニーズがあったから、フロー型の労働者には簡単になれるがストック型の労働を開始するノウハウはなかなか出回らない。どうすればいいかわからないのだ。
しかし、千里の道も一歩から。希望あるところに道は開ける。凡人サラリーマンであってもだ。

そしてそれは投資とインターネット。この二つを活用することとなる